玄関を開けると冷たい空気が肌を刺した。空の青さが目に沁みる。
天気予報によると今日は晴れときどき曇り、降水確率は十パーセント。雨なんて降らなさそうに見えるけれど、保険をかけておくに越したことはない。なんて思いながら折りたたみ傘を鞄に入れた。
学校に着くとひと際目立つ後ろ姿の男子――当真勇がいた。上背があり、制服の上からでもわかるほどすらりと長い手足。高校入学時は他の男子と変わらないくらいだったはずなのに、数年でにょきにょきと伸びていった。
おはよう、と当真の背中――もはや腰――をぽんと叩く。すると彼はひとつ、大きな欠伸をこぼした。そういえば昨日は教室に彼の姿がなかった。担任は公欠だと言っていたから、ボーダーの任務に就いていたのだろう。
ボーダーと提携しているこの学校では、どのクラスにも、どの学年にもボーダー隊員が在籍している。当真勇もそのひとりだ。遠くのほうで聞こえた爆音のようなものは、彼の、彼らのものだったのかもしれない。
「お疲れさま」
「いやー、これが普通に夜更かしだったり」
「は? 私の労いを返せ」
「ジョーダンだって。ありがとな」
もう! と彼の背をバシバシ叩いた。「イテェ」とかなんとか言っているが知るもんか。
◇
「雷といえば何を思い浮かべるでしょうか。雷鳴、落雷。魚雷、地雷。あまり良い印象はないかもしれませんね。しかし一年を通して季語になっていることから、日本の精神と深いつながりがあるといえます。「雷」は古くより「なるかみ」と呼ばれていました。人の力の及ばない自然や天候に畏れを抱き、そこに神を見出したのですね」
先生は流れるように黒板に文字を書いていく。
「さて、この「雷」、実は「なるかみ」だけでも漢字は「鳴る神」「雷神」「動神」「響神」と複数の表記があります。音に対する畏怖が見て取れますね。他には何と呼ばれていたか。「いかづち」「かむとけ」、面白いですよね。さらに面白いのは、例えば万葉集では畏れられているはずの雷が恋の歌に使われているということ」
そこで二つの和歌が書かれた。
『鳴る神の少し響みてさし曇り雨も降らぬか君を留めむ』作者未詳
『鳴る神の少し響みて降らずとも我は留まらむ妹し留めば』柿本人麻呂
「問答歌という形式は聞いたことあるでしょうか。和歌を通して、男女による問いかけの歌、答える歌という形のことです。この「鳴る神」は、恋人を留める口実になっているのですね。雨はしばしば逢瀬の障りとなってしまいますが、ここで詠まれているものは真逆の意味をもちます。かすかに聞こえる「鳴る神」と突然の雨に、恋の思いを詠んでいます。帰ろうとする人を引き留めるかのような雨、この突然の雨のことを――」
穏やかな語りで進められる古文の授業は、いつも睡魔に襲われる。他の授業ではうるさい一部のクラスメートもすべて撃沈している。必死でノートを取ろうとするが、もう体は言うことを聞いてくれなかった。耳だけはなんとか聞こえているような、聞こえていないような。雷と、雨と、それから。
◇
帰りに当真とちょっと話していたらいつの間にか昇降口にたどり着いて、靴を履き替えたらなんか流れで隣を歩いていた。彼の家は私の使うバス停と同じ方向にある。だからといって着いてくる必要は全くないのだが、わざわざそうしたのは彼によると「キブンだよ、キブン」らしい。猫がいたからとか、おいしそうなにおいがするとか。猫はいないし、何のにおいもしない。結局バス停に着くまではぐらかされ続けた。そろそろ帰るのかと思いきや、彼は併設のベンチに座って「腹減ったぜー」などと言い出す。
そういえば、以前にも途中まで一緒に帰った日があったっけ。
うっかり傘を忘れて、雨足が弱まるのを学校で待っていたときのことだ。
迎えに来てもらおうにも親は仕事中で、連絡したところで待ち時間は発生する。だからといって何週間も放置されている置き傘を使うのは気が引ける。どうしようと途方に暮れていると、「降ってるねえ」と声がした。
「当真」
外を見ていた視線がこちらを向く。「なんだ、帰ったんじゃねーのか」という彼の言葉に「んん、」と曖昧な答えを返す。
「ははーん、傘、忘れたんだろ?」
「うん」
素直に頷く。すると彼は手にしていた傘を押し付けてきた。
「俺んち近いから貸してやるよ」
「当真はどうするのさ」
「んー? 走るわ」
からからと笑う彼に傘を突っ返す。そんなのだめに決まっている。あとで風邪を引かれたり体調崩されたりしたら寝覚めが悪い。
家どこよ、と聞かれて使ってるバス停の名前を出すと、彼は「同じ方向じゃねーか」と言った。
「じゃあさ、」
さも名案だとでも言いたげな声音の彼を見上げる。
「二人で差して俺んちまで帰る。んで、おまえはそっから帰る」
いや手間か。でもまあ、千歩譲ってまだましかもしれない。彼は濡れないし、私も濡れない。なんて、私は偉そうに言えやしない。元はといえば傘を忘れたのが原因なのだから。
借りてるのは私だからと傘の柄の主導権を握ったものの、身長差に撃沈、彼の頭部や首を守るべく主導権を奪われた状態で身を寄せ合うことになった。
今まで彼と二人きりになることってあんまりなかったかもしれない。いつも何を話してるんだっけ、と考えながら隣を見上げるが目は合わない。
彼の薄く浮かべられた笑みが、少しだけ苦手だった。なんだかこの世のすべてを諦めているように見えて。私たちとは、私とは、見ているものが違うような気がして。それもそうだろう、当真は私とは違う。
無意識に出たため息を彼は拾ったらしい。
「雨、嫌いか?」
傘の内側、水滴の跳ね返る音に交じって当真の声が降ってきた。小さく頷く。濡れるし、汚れるし、嫌なことや悲しいことを思い出したりするから。――何より、大規模侵攻を思い出すから。
あの日も雨が降っていた。突然の出来事で何が何だかわからないまま、倒壊した建物や起き上がれなくなった人たちの間を親に手を引かれながら走って走って、どこかの体育館に避難した。濡れた体は冷え、震えがとまらず、抱きしめてくれた親の心音も速かったのをよく覚えている。身一つだとしても命がある限りやり直すことはできる。親がそう言っていた。私に言い聞かせるように、もしかしたら親は自分自身に言い聞かせるように言っていたのかもしれない。
その後、ボーダーという組織が設立されて数年。私とそう年の変わらない人たちがテレビで仲間を募集していると言っているのを観てから、少しずつ周りが変わっていった。高校の同級生にボーダー隊員がいて、彼ら彼女らはあのよくわからないもの――ネイバーと呼ばれている――と戦っている。
「……当真は、その……怖くないの」
戦うということに。死が身近にあるということに。
「その恐怖って意味あるか?」
彼はあっけらかんと言う。
「勝てばいーんだよ」
雨音が強くなる。彼の声が掻き消されていく。
私にはわからない。そう言い切ってしまえる彼のことがわからない。
当真の家に着くと、彼は「上がってくか? 茶くれーなら出せるぜ」などと言っていたが丁重にお断り申し上げた。傘を借りながらお茶までごちそうしてもらうわけにはいかない。
そうして玄関先でひらひらと手を振る当真の制服は、片側が異様に濡れていた。私がほとんど濡れていないから察してはいたけれど。いつも適当なことばっかり言うし、からかってくるし、今ちゃんに怒られているところばっかり見かけるのに。ずるいなあ。そういうとこだけスマートで。いつもと違う大きさの傘。可愛くもなんともない無地の傘。柄を握る手に力がこもる。こんな程度で揺れ動く私は、なんて単純なんだろう。彼のことなんて一ミリも理解できないままなのに。
次の日、家にあったお菓子をいくつか適当に包んで、傘と一緒に渡した。
「律儀だねぇ」
「それ褒めてる?」
「当たり前だろ? 俺を何だと思ってんだよ」
遠くで響く雷鳴。
どっちの方角からだろうか、近づく前に帰らないと。
バスが来る方向を見やる。そろそろ到着する時間だ。ふと、当真がじっとこちらを見ていることに気づいた。立ち上がり、じわりじわりと詰めてきて、いつもより近い位置にある彼の顔は笑みが浮かべられたまま。至近距離で視線がぶつかって、凪いだ瞳に無性にぞわぞわして、見えない何かが絡めとられていく感覚がして。それなのに彼は何も言わない。言ってくれない。彼のことがわからないのに、その笑みを少し苦手にさえ思っているのに、だからこそ惹かれている自分がいる。こんなの、たぶん、おかしい。前に誰かを好きになったときはこんなふうに思わなかったのに。
いつの間にか雨が降っていた。停留所の屋根に落ちた雫が小さく反響する。先ほどより雷が近づいている。この狭い空間ごと世界から切り取られたような、引き留められるようなそれは、まるで――。
「遣らずの雨みてーだな」
今日の古文であっただろ、と当真は言う。そうして彼は姿勢を正すと制服の袖――私からすれば肘のあたり――をつい、と引っ張ってきた。
「もうちょいいろよ」
「……なんで」
「なんでって、おまえといたいからだけど?」
乗る予定だったバスがウィンカーをつけて私を待っている。次は三十分以上先なのに、彼の手を振り払うことができなかった。
小さくなっていくバスの後ろ姿を目で追っていることに気づいた当真は「うち寄ってけよ」と、さっさと歩き出す。私は何も返事していないのに、鞄をかっさらうように持っていかれ、あわててその背を追いかける。当真の髪が、制服が濡れていく。待って待って、折りたたみ傘、その中にあるんだってば!
彼の家に寄らなくてもひとりで待てばよかったのに、そうしなかったのは鞄を持っていかれたから、だけではない。
「なんもねーけど、ま、ここにいるよりはマシだろ」
そのあとに続いた言葉は雨の音で掻き消されて聞こえなかった。
2022.04
「なるかみ」