君は、私の神様。
◇
普通の家庭で普通に育ててもらったと思うし、普通に育ったと思う。素直で明るくてお勉強のできる良い子。最初は本当にそうだった。私が良い子だとみんな嬉しそうだし、それを見て自分もまた嬉しかった。良い子でいるための努力もした。
いつからだろうか、良い子でなければと、思うようになった。そのための努力が苦痛になった。周囲から求められる良い子は都度変化していく。求められるものを求められるままに演じているのだと気づいたとき、自分自身がわからなくなった。本当に好きなもの、本当に好きなこと、本当の――私って、どんな人間だったっけ。
だから、一旦全部やめてみた。そうすれば、本当の自分が見えてくるんじゃないかと思ったから。あとに残ったものが本当の自分かもしれないと思ったから。
◇
「なにしてんの」
放課後、制服のままコンビニ前の車止めに腰掛けてぼんやりしていると、突然声をかけられた。足元に落としていた視線をのろのろと上げた先には、制服の下にパーカーを着ているクラスメート――虎杖悠仁が立っていた。
彼とは同じクラスであっても、話したことはほとんどない。輪の中心にいるのをよく見かけるが、その輪の中に私の友達はいない。要するに彼と私の接点はなにもないのだ。たとえクラスメートがひとりコンビニの前で所在無さげにしていようが、話しかける義理なんてあるはずがなかった。
「ひとり?」
「私以外に誰かいるように見える?」
「んーん、見えない」
俺もひとり!と、虎杖はからりと笑った。こちらのつっけんどんな態度を気にもしていないらしい。
辺りはすっかり暗くなり、夜の帳が下りている。先ほどまでの喧騒がうそのように静まり返っていた。
店から漏れる光が虎杖を照らす。彼は人の良い笑顔を浮かべたままおもむろに近づいてきて。――本当に嫌だったら、虎杖の横をすり抜けるなりなんなりして彼から離れることは容易にできるのに、私はそれをしなかった。
「……帰らないの?」
「そっちは?」
「帰りたくないからここにいる」
「じゃあ俺も」
なにがじゃあ、だ。
それから虎杖は、私と同じように車止めに体重を預けた。腕が触れそうで触れない。肩がぶつかりそうでぶつからない。
しばらく無言のままふたりで並んでいた。ドアの開閉音、車の行き交う音、ふと空を見上げると名も知らぬ星が瞬いていた。
こうしていると、自分が何をしてもしなくても世界は勝手に回っているのだと理解してしまう。当たり前だ、私は何億分の一の存在でしかないのだから。喧騒と静寂の中、時間が過ぎ行くのをただ待っているだけの無駄な行為。今日が初めてではなく、何度もここでひとりの時間を過ごしたが、誰にも声をかけられなかった。居ることはわかっていても、まるで居ないもののように通り過ぎていく。――今日初めて、虎杖が見つけてくれた。声をかけてくれた。
あのさ、と横から声をかけられて視線だけを彼に向ける。
「なにか、あった?」
少し眉を下げた虎杖がこちらを見ていた。
「なにかって?」
「一年のときとめっちゃ雰囲気変わった気がするけど、どしたん」
「別に、なにもない」
「そっか」
一年のとき。私がまだ良い子だったころ。虎杖とは違うクラスだったのに、どうして私のことを知っているのだろう。どこかで誰かが噂していたとか、そういう流れで耳にしたのだろうか。
訝しげな様子を感じ取ったのか、彼はそれ以上の追及はしてこなかった。
「俺はじーちゃんが入院しちゃってさ、ずっとお見舞い行ってんだ」
だからこの時間に出歩いているのだと言う。
「じーちゃんは来るなってうるせぇけどな」
虎杖はからからと笑った。それからは彼の祖父の話が止まらなかった。きっと、それだけ祖父と過ごした時間は彼にとってかけがえのないものなのだろう。祖父の話をしている虎杖は本当に楽しそうで。「おじいさんのこと、大事に思ってるんだね」と言った。そうして、ふと思う。私はどうだろうか。誰かを大事に思っているのだろうか。
ちらと返事のない彼を見ると、驚いたように目を瞠っていた。
「あんまそういうの考えたことねーな。俺にはじーちゃんしかいないし」
「そう」
「でもそうだな、一緒にいるのが当たり前だったから……ほんとは、ちょっと寂しいのかも」
消え入りそうなほどに弱々しい声。笑っているけど笑えていない。気付いていても言葉にしていなかった感情が、今、たしかな輪郭を得て虎杖の中にあるのかもしれない。目が合って、彼はへらりと笑う。纏う雰囲気までもが弱々しく見えた。――私では彼の寂しさを埋めることもまぎらわせることもできない。だから、せめて。そんな感情に向き合わせてごめんねと、いまはひとりじゃないのだと、虎杖と私の間にあった隙間を埋めるように彼との距離を詰めた。腕が、肩が、太ももが触れる。服越しにゆるやかに体温が溶け合って。彼の寂しさもこのまま溶けてくれたらいいのに、と思った。
どのくらいそうしていたのかわからないが、虎杖の身動ぎを感じて、衝動的な行動の恥ずかしさが時間差でやってきた。慌てて立ち上がって羞恥をごまかすように伸びをする。体の左側、虎杖に触れていたところが夜風にさらされ冷えていく。しばらく同じ姿勢を続けていたからか、体からへんな音が鳴った。――本当は、私も寂しいのかもしれない。演じた自分をまるで本当の自分のように扱われて、本当の自分はいないもののように扱われて。自分以外、誰も本当の自分を知らないんじゃないのか、と。
もしかしたら、彼なら。虎杖なら。見つけてくれたように、声をかけてくれたように、こんな私を導いてくれるだろうか。
「ねえ。私ってどんな人間か、知ってる?」
――やってしまった。そう思ったときにはもう言葉が口から滑り出たあとだった。きょとんとした顔の虎杖を見下ろす。
「知ってるよ」
何を当たり前なことを。そう言いたげな表情のあと、彼は「そうだなあ、例えば、」と指折り数えていった。いつも背筋を伸ばして歩いている。話すときは相手の目を見て話す。物の扱いが丁寧。
「ほら!もう三つ!」
「……でもそれ、当たり前のことなのに」
「当たり前だからこそ難しーの。当たり前のことを当たり前にできるのってすごいことじゃん」
そういうところ、尊敬するなぁ。
何でもないことのようにぽつりと呟かれた言葉が、全身を駆け巡った。頬に熱が集まる。口から吐き出す空気に音が乗らない。虎杖の目が、何かを言いたげにこちらを見ていて。その目に、空気に耐えられず後退ろうとしたが、彼に手首を掴まれて阻まれる。彼の手は私が逃げないとわかると手首から手へ、そして手のひらを包み込んだ。
ゆるく握られている手は力を入れればすぐに抜け出せる程度のもので、そうわかっていながら彼の手を振り払えなかったのは、本当は虎杖に引き止めてほしかったのかもしれない。欲しかったものをくれた彼に、これ以上求めてはいけない。でも、でも。きっと彼は、求められれば何度でもくれる。何度でも救ってくれる。何度でも導いてくれる。彼の言葉に包まれた心が、もっともっとと叫んでいる。
歪んだ顔を見られたくなくて、空いてる手で顔を隠した。夜は私の味方なんてしてくれなくて、無情にも店の照明に照らされる。掴んでいる手をあやすようにゆらゆらと揺らしながら、虎杖は笑顔で見上げてきた。
「な、ちょっとでいいから笑ってみ」
「なんで」
「いーから」
虎杖に抱いていた警戒心は、もうすっかりどこかへ消えていた。あとに残ったこの感情の名は。
「虎杖って変なやつ」
久しぶりに人前で笑った気がした。綺麗になんて笑えなかった。
「そっちのほうがかわいーよ」
そう言うと虎杖は、いっつもこんな顔してるからさーと、全然似てない私の真似をした。似てないけど、よく見ている。私は彼に見られていることに気が付かないほど、自分のことしか見えていなかった。
もうこんな時間、と言ったのはどちらだったか。どこかの家から漂っていた夕餉の匂いはすっかり薄くなっていた。
「家まで送るよ。どっち?」
「あっち。でも大丈夫」
こんな私を見捨てずに声をかけてくれた虎杖に、返せるものがあるとしたら。
「ありがとう!また明日、学校でね」
今日いちばんの笑顔で、明日の約束をすること。
虎杖に大きく手を振り、帰路につく。足取りが軽やかだ。今なら何でもできる気がする。いつも遅く帰って心配させていたことを謝ろう。家族とのコミュニケーションを放棄していたことを謝ろう。明日、学校で虎杖に会ったらおはようって言おう。それから、それから。
明日が楽しみなんて、久しぶりだった。
2021.02